桂樹舎・和紙文庫館長 吉田桂介

撮影:出口 俊一
"桂介さん"──人生においても、仕事の実績においても、私たちが遠く及ばない大先輩なのに、発見塾のメンバーからは、親愛の情を込めてそのように呼ばれている。
とても奥行きが深くて、ある意味、とてもかわいい人でもある。
昨年、脳梗塞を患って以来、口での表現にもどかしさを感じるようになったと、ご本人もおっしゃるのだが、現在(2008年)、93歳をゆうにこえて、
「町通りがもっと賑やかになればいいね。今は大へんさびしすぎる」と、八尾町への想いや問題意識は、いささかも衰えていない。
坂のまち美術館で、4年前の冬の夜に、桂介さんを囲んで炉端談義をやったことがあった。
そのときの記録をひもといて、「やつおびと」吉田桂介の八尾と和紙への想いを再録させていただいた。
<略歴;1915年八尾町生まれ。東京・三越での勤務を経て、1935年に紙漉(かみすき)の道に入り、柳宗悦の知遇を得て“民藝”運動に参加。日本の染色文化を代表する上村六郎や芹沢銈介に師事。1947年に(株)越中紙社、60年には(有)桂樹舎を設立。86年には桂樹舎・和紙文庫を開館。八尾の和紙と文化の伝統を今に伝え、次につなげようとしている>
尾形光琳と比べて

昔は“人生二万日”と言われましたが、計算してみたら五五歳になる勘定です。八八歳と一〇ヶ月は約三万二〇〇〇日です。
つまり一万二〇〇〇日分、長生きしたことになります。それだけの日数、何をしていたか。
ただ紙を漉(す)いていたという凡々たる日々を送っていただけで、はなはだもって恥ずかしい思いをしています。

尾形光琳(江戸中期に卓抜な光琳風意匠で絵画や工芸の世界に大きな影響を与えた)が死んだのは、五九歳だそうです。その話を聞いたのは私が六一歳の時でした。光琳は、大変な仕事をしましたね。
『燕子花(かきつばた)屏風』にしても、屏風に燕子花が見事に立っていますね。そのときこんな歌をつくりました。
光琳の没年 五九と言えり 我より
二つ年下にして
光琳が偉大なる業績を残して五九歳で生涯を終えている。
私は二年も長生きしていながら何もしていない。なんと恥ずかしいことか、慚愧(ざんき)の思いに堪えかねてこの歌をつくったわけです。
三万二〇〇〇日の歳月を、紙一筋で来た、すると幸せなのかな、でも果たして幸せだったか、こもごも反省しまた喜びを深くしているわけです。
振り返ってみて、私自身が開拓して来たことなどは一つもなくて、まったく八尾のみなさんの後押しのおかげでありますことを感じます。
三越で学んだ商品学

私は昭和四年に東京に出て、三越本店の呉服売場で働いていました。
お客様に毎日接することで学ぶことが多く、三越という大百貨店にいたことが、今から考えると大変にプラスになっています。
地下から八階まであらゆる商品がある、どこに何があるかをいつも把握していなければならない。
お客様が来られて「どこそこの何を持って来てくれ」と言われたら、「ハイ」と飛んで行って、その品物を持ってこなければなりません。
「こういう品物がないか」と問われたら、「ハイあります」と即座に答えないといけない。ですから商品学の知識は、教えられなくても一生懸命勉強しました。
商品がどういう経歴でつくられたかを知らないといけない。そうしないとお客様に説明できない。
呉服には模様や色がある。お客さんの姿・形・年齢を見て、「大変にお似合いでございますよ」と言うにはセンスも磨かなくてはいけない。
そういうものも、分からないなりに分かってきた頃に病気(肺結核)になって、家へ帰ることになりました。一七歳でした。
不治の病の「リハビリ」がきっかけ
当時、肺病は治らない病とされ、罹(かか)るとたいていの人は死んでいく。私の周りにもたくさんの人が肺病で寝ていて、みんな死んでいく。
それを見ながら、しかしこんな病気くらいでは、絶対死なれんと思った。
薬もないけれど、安静にしてきれいな空気を吸って規則正しい生活をして──自然療法で闘病生活をはじめた。
真冬でも窓を開けっ放しにして新鮮な空気を吸う。朝起きると布団の上に雪が積もっているといった生活を二~三年集中してやって、運が良かったのでしょう、快方に向かいました。
でも家が生活に困っているのに、自分がこんなことでブラブラしていていいのかと思っている時に、八尾町の紙業者の組合が新しい技術を取り入れ、若手を養成しようと、昭和九年に「製紙指導所」を設立。講習生を募集した。
こちらは紙漉(かみすき)をやろうと思ったわけではなく、「リハビリ」のつもりで申し込んだのが、きっかけでした。
見よう見まねで紙漉を習っているうちに、和紙というものをつくる面白さにとりつかれて行った。
毎日が新発見で、のめり込む
その頃、八尾では和紙は山手の五〇〇軒余りの家が紙漉をやっていました。つくられる紙は、ほぼ全て白い紙でした。白い紙は、それはそれで美しいが、隣も向かいも同じような紙を漉いてくる。
「自分がやるとすれば、人の真似をしてもしようがない、他人と違うことをしないといけないのでは」と考えた。そこで、染料を買って赤、青などに染めてみた。
染めた紙や模様のある紙など、いろいろ工夫をして自分なりの紙をつくると大変面白い。毎日が新発見で、紙から抜けられなくなった。
「こんな紙は誰もつくったことがないだろうな」と自負も出来てくる。ところが、調べてみるととんでもない話で、和紙の歴史は一四〇〇年近くありますが、日本人はその間にあらゆることをやっています。本当の新発見はほとんどない。昔の人は偉いものだなと、ただ関心するだけでした。
そんなことをやっているうちに、日本画の絵描きの人が指導所によく遊びに来て、私のつくる紙をみて興味を持ってくれた。こちらもいい気分で肝胆相照らす仲になって、二人で仕事場を持って世間に打って出ようという話になった。
「富山県美術紙研究所」と名付けて、大阪や京都まで売りに行く。紙屋のおやじさんたちに見せると、「面白い、面白い」と言われて商売になった。六~七人の人を雇っていました。
ところが昭和一二年に支那事変(日中戦争)が起こって、町中を召集兵が楽隊と万歳の声に送られて出征して行くようになった。日常の物資も不足し、“皮革禁止令”が出て民間に皮革が回らなくなった。すると、革の代用品を和紙でつくれないかということになった。
東京の王子製紙の子会社が日本擬革製造株式会社を設立、革の代用品の製造をはじめた。
八尾の小さな会社でつくった紙──楮(こうぞ)の繊維に色繊維を混ぜたもの──に眼をつけ、会社を買収したいと言ってきた。「こりゃ楽でいいわ」と会社を売って、私は一社員になった。初めて給料をもらったが、しばらくするとどうも面白くない。つくりたい紙がつくれない。
ついにそこを飛び出し、ぷらぷらしていると、八尾はありがたいところで、町の旦那衆が「吉田桂介が遊んでおる」と言うことで、出資しあって紙漉工場をつくってくれた。それが「八尾紙業」有限会社。
ちょうど戦争がエスカレートしていく時期で、軍需物資をつくらないと、原料も薬品も配給されない。仕方ないので軍隊手帳や風船爆弾の紙までつくった。一〇人ほどで手漉きの紙をやろうと思っていたのに、五〇人くらいの人を雇って盛んであった。
国を建て直そうと、みんな考えた
戦争が終わると、ただ懸命に仕事をしただけなのに、軍の仕事で利益があったとされ、税金で全部持っていかれ、また、何もなくなった。
生活物資も食料もない時代だったが、私は「このどん底に落ちた日本の国をどうして建て直すか」と一生懸命、考えた。
八尾の町で、日本の国のことを考えてもしょうがないかもしれないが、その頃はみんなが日本のことを考えた。
戦争に負けて土壇場にあって、どうしようかという時に、自分の体なんかどうでもいい、日本の国を建て直そうという気持ちが、みんなにあった。
食料もなかったので、川原へ行ってスベリヒユなどの草を採ってきて米に混ぜて食べて頑張った。世の中にモノがなかったので、つくれば売れる。
なかでも紙で一番売れるのはチリ紙だった。そこで、八尾紙業も機械を導入しチリ紙を量産しようということになった。
美しい紙には、楽しみがある

日本の国がはじまってつい最近まで、手仕事でないものなど一つもなかった。
明治初期から機械製紙が発達してきたが、手仕事の和紙は「世界でこんな立派なものはない」というほどの紙が出来る。
だから、その手仕事に関わっている者が、機械で紙をつくるのは潔しとしない。わが意に反する。それに機械紙は八尾でなくてもどこでも出来る。
八尾は、やっぱり手仕事でいったほうがいいのではないか、と考えた。
手でつくって、いい紙ができればうれしい。いいものをつくろうと一生懸命にやる。美しい紙には楽しみがある。
苦しみもあるけれど、楽しみがあるという仕事がいい。
機械でチリ紙を量産して経済の利得ばかりを追っている仕事に、俺はついていけないわい。そう考えて、機械がちゃんと稼働するのを見届けて辞めた。浪人である。
私自身は、手でつくる紙の良さ・面白さに取り憑かれていて、仮に東京へ出て他の仕事についたとて必ずここに帰ってくるな、という思いがあった。
帰ってくるならよそへ行く必要はない。この仕事を続けるだけである、と決意した。昭和二一年のことだった。
日本の美しい色とは何か?

もう一回、紙工場をつくろうと思うものの、お金は一銭もない。
しかし、世の中はありがたいもので、今度はうちの親類に泣きついた。それでもまだカネが足りない。
富山に、山田昌作さんという北陸電力の元社長で、富山経済界の大御所だった人物がおられた。当時三一歳の私は、全くの向こう見ずで怖いもの知らず。この人にお願いに行こうと思った。
といっても山田さんは雲の上の人。それを、知遇を得ていた翁久允(おきなきゅういん)という富山きっての文化人の方に、お願いして紹介してもらい、山田さんに会うことができた。
「和紙は、二千年の日本文化を担ってきた大事な素材。今、国は乱れに乱れて日本文化の存続も危うい。和紙は日本の国のために絶対必要で、これを建て直したい」。そのようなことを本気で思って、丸坊主頭の若者が山田さんの前で一生懸命に言ったのだと思う。
山田さんは、すぐに銀行に話しをして資金を出してくれた。当時、電気ビルの社長だった山田さんの部屋はサロンのよう。そこに出入りする若い経済人に「君らもみんなお金を出せ」と声を掛けてくださった。
昭和二三年、大きな民家を移築して工場にし、仕事をはじめた。株式会社「越中紙社」のスタートである。小さな会社だけど、株主の毛並みは大したもんでした。
念願の手漉きの紙をつくるのだが、色の白い紙をつくっていては競争に勝てない。今までにないような紙をつくろうと、染色紙をはじめた。染色紙は、紙に染料を入れればできるが、ただ赤や青いだけでなく、日本には古来から日本の美しい色がある。
いかに美しい紙をつくるか。美しい色とは何か?たとえば能の装束がある。実に美しい鮮やかな色だが、しかしみんな落ち着いた色をしている。
決してけばけばしくない、しっとりとした色合いで、華やかさと渋さを出している。それをいかに紙に表現するか。難しいがそういう紙をつくろうと思った。
“民芸”運動 柳宗悦・芹沢銈介との出会い
幸いなことに、染色については、越中紙社をつくる七~八年前から柳宗悦という先生をよく知っていた。
柳先生が毎月発行されていた『工藝』という雑誌があって、表紙は布などを使い、本文は和紙、全部が手づくりだった。
装丁は染色工芸家の芹沢銈介(せりざわけいすけ)先生が担当されていた。

一〇年間に一二〇冊刊行されましたが、世界で最も美しい雑誌であると言われている。
それは和紙、木工、漆、織物、陶芸など民衆がつくった器物に、こんなに美しいものがあるという“民芸”理論提唱の本だった。
当時も高価で、とても買えなかった。富山に柳先生に心酔されている人がいて、雑誌を見せてもらっていると、「和紙は、日本文化を支えてきた最も重要なものである。
世界のどこを探したとて、このような美しい紙はなく、ほかの工芸品に比べて何ら遜色のない高みにある」と書いてある。それを読んでわが意を得たりと大感激した。
若いということは偉いことで、恐れを知らない。
東京の日本民芸館に一面識もない柳先生を訪ねた。「私は和紙をつくっていて、生涯を和紙で貫こうと思っているのですが、どういう紙をつくって、どんな方向へ行ったらよいでしょうか」。田舎出のぼんぼんを、先生は一人前の扱いで書斎に招き入れてくれた。
奥からいろんな紙の見本を抱えてきて、こういう紙があるよ、こんな紙も面白い、と一つひとつ見せてくれて、こう言われた。
「これらはみんな昔からの手法を忠実に守ってきた真面目な紙である。だから美しい。みんな草木染めだよ。今、世の中には色の白い、弱い、安い紙がたくさんあるけれど、君がやるときは伝統をしっかり守った昔のような紙をやりなさい。そうすれば間違いない」。
柳先生の民芸理論を中心に、陶器の浜田庄司、河井寛次郎、版画の棟方志功、木工の黒田辰秋などの第一級の方々がきら星の如く集まっていた。それらの先生方とも知遇を得た。なかでも私が大きな影響を受けて生涯の師と仰いでいるのが芹沢銈介先生である。
柳先生の紹介で、芹沢先生の和紙染めの仕事に八尾の和紙を提供することができた。
そのうえ、先生のもとに出入りするようになって五~六年後、先生から型染めの技法を学んだ。修得するのに何年もかかったが、“型染めカレンダー”の製作のお手伝いをするようにもなった。
この仕事は今も「桂樹舎」(紙づくりの「越中紙社」に対して、加工の仕事場として昭和三五年に設立)の大事な仕事として残っている。
話は少し戻るが、雑誌『工藝』に「植物染料」の特集があった。
それには、日本も中国も欧州も、化学染料が出来る前の色は美しい。化学染料が入って、アクが強い嫌な色のものが世の中に氾濫した。自然な色合いの植物染料は、何を原材料にして、どういう染め方で、どんな色にするかという研究が克明に書いてあった。それを入手して、自分で紙に染めて確かめる、というようなことを自分なりにやるようになった。
ある時、京都の大学で日本上代の染色文化を研究されている上村六郎という先生が、八尾の紙を調べに見えたときに、植物染めの紙を見せた。
「何で八尾でこんな紙ができるんや」とビックリされた。以来、先生と親しくなって、泊まり込みで染色のことを習い、研究のお手伝いもするようになった。このおつきあいは先生が亡くなるまで四〇年余りも続いた。
『日本文学全集』に救われた
さて、越中紙社であるが、設立後二~三年はずっと赤字。どうするかと思っていたら、救いの神が出てきた。
八尾の町には紙問屋が何軒もあって、山手(中山間地)の紙を富山の売薬屋さんに売る。私は、その紙問屋を飛び越えて、東京へ行った。空襲で東京は瓦礫の山。街は荒廃していた。そういうところへ行って紙を売ろうと、出版社廻りをはじめた。
和紙を使ってくれるのは出版社が多いと思った。瓦礫の山を歩いて、出版社を訪ねる。講談社、岩波書店、中央公論、文藝春秋、河出書房・・。一流出版社もみんなバラックでした。
受付で「富山県の八尾から来ました」と言っても、門前払い。一度行くでしょう、次また行くの。ハイまたダメ。次また行くの、何度でも。商売というのは熱心さと押しの強さ、これだと思う。
そのうちに「なんだ、また来たのか」という顔をして二階から下りてきて、ぱらぱらっと見本だけ見てくれる。「ハイ分かった」。それだけだけど、懲りずになんべんもなんべんも行く。
東京まで行くのは大変だったですよ。切符の制限があるから。八尾なら東京行きの切符は一日に二枚か三枚しか買えない。だから朝4時起きで一番に並ぶ。かろうじて切符を手にいれても、汽車は人で一杯。客車の床に座る。眠たいから椅子と椅子の間にはまりこむ。
そうして月に一回づつ行く。すると「お前また来たのか、まぁ入れよ」と、奥に入れてくれる。見本をパラパラと見ながら、「今、こういう企画がある」と話が出る。
助かったのは、河出書房(現在の河出書房新社)が、いの一番に『日本文学全集』全五〇巻を出した。思い切った冒険だった。その全集の表紙の「見返し」(表紙を返したときに見える内側の部分)に、うちの和紙を使ってくれた。
ところが出してみると、日本中が活字に飢えていて増刷に次ぐ増刷。こちらも忙しくなった。その後の『世界文学全集』も増刷に。越中紙社はようやく軌道に乗った。植物染めの色合いの紙としては、日本のどこもつくっていない紙をつくった。
植物だけでは色が合わないので、染料を工夫して植物染めに近い色を追求していく。和紙の染め紙は、こんな渋い色だということに、日本中が認識していく。
すると、次にだれかが染め紙をやるときには、真似をして同じ色合でつくってくる。これは嫌だね、困る。ここ一〇年余り前から、機械製紙が和紙の世界にも進出してきた。それで染色の紙を出す。
これまで越中紙社が苦労してつくってきた色あいを、全部真似してくる。これはさらに困る。それに対抗して、こちらはまた新しい工夫をしなければならない。
唐傘と障子が和紙を支えていた
つい最近、越中紙社は閉鎖しました。ソロバンが合わない。
和紙は、聖徳太子の時代に、韓国から日本に技術が入ってきた。以後、日本で大変な発達をしました。
当時から、仏教によって国を興すということで、お寺がたくさん造られた。お寺ができれば坊さんもたくさんいる。遣隋使や遣唐使を派遣して経典をたくさん日本に持ち帰る。それを全部書き写してお寺に配布する。「写経事業」は、膨大な数が必要で紙もたくさん要る。
朝廷直々の紙漉場がつくられたが、越中にも早くから紙漉の技術が伝わった。一〇〇〇年も前の平安朝の頃には紫式部や清少納言などによる女流文学が興り、また書や絵画など芸術性の高いものがたくさん生まれた。
和紙がなかったら日本の文化はない。
その和紙は、昭和四〇年代にぱったりとダメになる。明治の終わり頃、紙を漉いていた家は全国で五万四〇〇〇軒ほどあったが、昭和の初めには、一万三〇〇〇軒弱に落ち込んだ。昭和四〇年代に、毎日新聞社が『日本和紙大鑑』という書物を出しました。
日本中の紙を集約し後世に残そうと、社運を賭けて非常に大部な本、全五巻をつくった。
その時、もう内閣統計局が統計もとらなくなっていたが、新聞社の調べで八〇〇軒しかなかった。日本中を駆け回って、昨日まで紙を漉いたところまで掘り起こしても八〇〇。
昭和四〇年代に世の中がコロッと変わった。それまでは傘といえば、日本中が唐傘(からかさ)。全世帯が三〇〇〇万戸だから、一戸に三~四本としても一億本はあった。
蛇の目、番傘、日傘、子供傘などみんな和紙を貼って出来ている。唐傘の紙は、丈夫で張りのある日本の紙を代表する本当に立派なものだった。
その唐傘がこうもりになって、自動的に開く傘に変わった。私たちの目の前から唐傘が姿を消し、唐傘紙を漉く人がいなくなった。
次に障子紙が消えた。建築様式の変化で、障子や襖がドアやサッシに置き換わった。わずかに残った障子紙も、パルプを原料に機械で量産されるようになった。色が白くて安ければいいと。
楮を原料にした手漉きの紙は何千円もするが、機械紙は四〇〇円ほど。すぐに破れても、色が白ければ「きれいになったわね」。
そういうことで、手漉きの一度張れば三年も四年ももつ紙が売れない。そうして障子紙もダメになった。
手仕事は一つ躓くと将棋倒しに

かくて、手漉きの紙は、本当に狭い隙間のような需要を拾っていかねばならない。
それに追い打ちをかけるように機械漉がだんだん発達してきて、手漉きの紙の分野を侵してくる。
手漉きの職人が一生懸命考えて「この紙はいいぞ、こんなのができた」と言って出せば、あっという間に機械漉が真似をする。そうすると手漉きの人たちが活躍する場がない、生活する場がない。
八尾の山手に五〇〇軒ほどあった手漉きの農家も、昭和四〇年代には一軒もなくなった。そうすると、原料の楮を栽培しなくなった。かろうじて残った私たちが、紙をつくろうとしても、自分の国に原料がない。あっても量が少ないから値段が非常に高くなる。
仕方がないので韓国やタイへ行って探す。しかし、日本の楮とは質が違う。日本の楮のように立派な紙ができません。日本の紙幣は、楮とミツマタという植物の繊維が入っているので、世界で感心されるほど立派。外国の紙幣と比較すると、すぐに分かります。
次に困るのは、道具をつくる人がいなくなったこと。たとえば紙を漉くスダレは、とても精巧に出来ている。竹を細く細くしごいて丁寧に編まなければならない。紙のムラが生じないようにピシーッとしたものにするには、高度な技が要る。
そういう仕事をする人やヒゴをつくる人がいなくなる。漉く木枠をつくる人もいなくなる。これも狂わないようにつくるには技術がいる。そういう具合で、手仕事は一つ躓(つまず)くと将棋倒しにダダーっと倒れて行く。
私は七〇年間近く紙をやってきて、苦労したという経験はない。
自分の仕事であれば苦労は苦労ではない。ただ、今日に来て、原料と道具がないのにはこれは苦労する。
竹のスダレにしても、中国にも竹はあるが日本ほど丈夫ではない。もっとも窮すれば通ずと言って、金網をつかってスダレに近い道具を考えた。
問題は山積しているが、一つひとつ克服して和紙をまだまだ続けたい。
八尾の特産品にして行きたい。富山県の特産品にしたい。なおかつ日本の特産品にしたい。
日本の国は、楮や三椏(みつまた)のような立派な原料があり、こんなに優れた技術があり、こんなにいい紙ができるんですから、これは世界に誇っていい紙の国です。これを絶やすことなく、ずっと残して行きたい。
「おわら」と景観を、私たちの力で
私は、八尾に生まれて、八尾のご恩になりっぱなしで来ていますが、こんないいところはないと思う。
八尾の発展には私たちが、何ができるのかを考えないといけない。一番大きな問題は、やはり「おわら」。おわらは、年間二〇~三〇万の人が来る。
一度おわらの唄や音色を聴くと、一ヶ月くらい頭のなかで三味線の音色、太鼓の音が鳴っている。あの踊りの優雅さ・幽遠さを見ると、こんな踊りが世界のどこにあるのかと私自身が感激する。
八尾のおわらは、極めて日本的なものであり、世界的なものでもあります。こんな民謡はどこにもない。思うだけで涙が出るほど魅力的です。
また、井田川から見る石垣も素晴らしい。あれだけの石垣を八尾の人たちはみんな自分でつくった。補助金などない江戸時代にである。
諏訪町通りは、店屋もないのに、みすぼらしくない。本当に立派なものです。おわらと一体となって迫ってきます。
八尾人は、もっともっと知恵を発揮して、来た人に楽しんでもらうことを考えないといけない。人混みでおわらが見られない、不満を残して帰っていかれるのではなく、来た人みんなに満足してもらう。それを考える。「なんともなりません」ではダメです。これ、やりましょう。
一〇〇万人の人たちが来て、おわらを満喫してもらう。人が集まれば、また町の人口が増えてきますよ。それを、自分たちの力でこれを実現する努力をしていかないといけない。
そうすると行政も、なんとかしなきゃいけないと応援してくれる。そういうことを、このごろは切に感じます。
質問:和紙文庫は、日本でも珍しい和紙の博物館ということですが?

「工芸」という観点で、紙と紙製品を収集したものとしては、あそこまでやったところは日本でも珍しいでしょうね。前々から集めていたが、それを展示してみなさんに見てもらおうという大それた考えはなかった。
ところが、芹沢銈介先生から「八尾でとにかくつくりなさい。私も協力するから」と言ってもらえて、「ありがたい。やってみます」と準備を始めた。先生の言葉がなければ出来なかったかもしれない。
第一に、博物館には収蔵品が必要ですが、芹沢先生が一生懸命集められたものをくださった。京都の上村六郎先生も自分のコレクションを提供してくださった。
そういう具合に、みなさんの力でもって出来ました。私は本当に、そういう点は幸せであります。

おかげさまで、柳宗悦、芹沢銈介、浜田庄司、上村六郎、寿岳文章、北原白秋といった日本の第一級の先生がたに始終会っておれた。
先生たちは、いずれもエベレストのように高く聳えている大山塊。こっちはカトマンズ辺りでウロウロしている。でも、先生たちと巡り会わなければ、カトマンズにも行けなかった。
芹沢先生の許には長い間、通い続け、工芸に対する考え方、制作態度、美術品への対し方などを学びました。
私は、絶えず先生たちを仰ぐ。「これをやる場合に、先生だったらどう考えられるか。先生が見られたら何とおっしゃるか」。それが常に頭を離れません。
もう一つ、芹沢先生の教えに「物事はいま一度押してみなさい」というのがあります。事を図るにはいい加減にしない。作品づくりは当然のこと。そこへ行き着くまでにはもう息切れがしているのだけど、それを「もう一歩を進めよ」と。
実行は難しいですが、肝に銘じている言葉です。
桂樹舎・和紙文庫館長 吉田桂介

撮影:出口 俊一
"桂介さん"──人生においても、仕事の実績においても、私たちが遠く及ばない大先輩なのに、発見塾のメンバーからは、親愛の情を込めてそのように呼ばれている。
とても奥行きが深くて、ある意味、とてもかわいい人でもある。
昨年、脳梗塞を患って以来、口での表現にもどかしさを感じるようになったと、ご本人もおっしゃるのだが、現在(2008年)、93歳をゆうにこえて、
「町通りがもっと賑やかになればいいね。今は大へんさびしすぎる」と、八尾町への想いや問題意識は、いささかも衰えていない。
坂のまち美術館で、4年前の冬の夜に、桂介さんを囲んで炉端談義をやったことがあった。
そのときの記録をひもといて、「やつおびと」吉田桂介の八尾と和紙への想いを再録させていただいた。
<略歴;1915年八尾町生まれ。東京・三越での勤務を経て、1935年に紙漉(かみすき)の道に入り、柳宗悦の知遇を得て“民藝”運動に参加。日本の染色文化を代表する上村六郎や芹沢銈介に師事。1947年に(株)越中紙社、60年には(有)桂樹舎を設立。86年には桂樹舎・和紙文庫を開館。八尾の和紙と文化の伝統を今に伝え、次につなげようとしている>
尾形光琳と比べて

昔は“人生二万日”と言われましたが、計算してみたら五五歳になる勘定です。八八歳と一〇ヶ月は約三万二〇〇〇日です。
つまり一万二〇〇〇日分、長生きしたことになります。それだけの日数、何をしていたか。
ただ紙を漉(す)いていたという凡々たる日々を送っていただけで、はなはだもって恥ずかしい思いをしています。

尾形光琳(江戸中期に卓抜な光琳風意匠で絵画や工芸の世界に大きな影響を与えた)が死んだのは、五九歳だそうです。その話を聞いたのは私が六一歳の時でした。光琳は、大変な仕事をしましたね。
『燕子花(かきつばた)屏風』にしても、屏風に燕子花が見事に立っていますね。そのときこんな歌をつくりました。
光琳の没年 五九と言えり 我より
二つ年下にして
光琳が偉大なる業績を残して五九歳で生涯を終えている。
私は二年も長生きしていながら何もしていない。なんと恥ずかしいことか、慚愧(ざんき)の思いに堪えかねてこの歌をつくったわけです。
三万二〇〇〇日の歳月を、紙一筋で来た、すると幸せなのかな、でも果たして幸せだったか、こもごも反省しまた喜びを深くしているわけです。
振り返ってみて、私自身が開拓して来たことなどは一つもなくて、まったく八尾のみなさんの後押しのおかげでありますことを感じます。
三越で学んだ商品学

私は昭和四年に東京に出て、三越本店の呉服売場で働いていました。
お客様に毎日接することで学ぶことが多く、三越という大百貨店にいたことが、今から考えると大変にプラスになっています。
地下から八階まであらゆる商品がある、どこに何があるかをいつも把握していなければならない。
お客様が来られて「どこそこの何を持って来てくれ」と言われたら、「ハイ」と飛んで行って、その品物を持ってこなければなりません。
「こういう品物がないか」と問われたら、「ハイあります」と即座に答えないといけない。ですから商品学の知識は、教えられなくても一生懸命勉強しました。
商品がどういう経歴でつくられたかを知らないといけない。そうしないとお客様に説明できない。
呉服には模様や色がある。お客さんの姿・形・年齢を見て、「大変にお似合いでございますよ」と言うにはセンスも磨かなくてはいけない。
そういうものも、分からないなりに分かってきた頃に病気(肺結核)になって、家へ帰ることになりました。一七歳でした。
不治の病の「リハビリ」がきっかけ
当時、肺病は治らない病とされ、罹(かか)るとたいていの人は死んでいく。私の周りにもたくさんの人が肺病で寝ていて、みんな死んでいく。
それを見ながら、しかしこんな病気くらいでは、絶対死なれんと思った。
薬もないけれど、安静にしてきれいな空気を吸って規則正しい生活をして──自然療法で闘病生活をはじめた。
真冬でも窓を開けっ放しにして新鮮な空気を吸う。朝起きると布団の上に雪が積もっているといった生活を二~三年集中してやって、運が良かったのでしょう、快方に向かいました。
でも家が生活に困っているのに、自分がこんなことでブラブラしていていいのかと思っている時に、八尾町の紙業者の組合が新しい技術を取り入れ、若手を養成しようと、昭和九年に「製紙指導所」を設立。講習生を募集した。
こちらは紙漉(かみすき)をやろうと思ったわけではなく、「リハビリ」のつもりで申し込んだのが、きっかけでした。
見よう見まねで紙漉を習っているうちに、和紙というものをつくる面白さにとりつかれて行った。
毎日が新発見で、のめり込む
その頃、八尾では和紙は山手の五〇〇軒余りの家が紙漉をやっていました。つくられる紙は、ほぼ全て白い紙でした。白い紙は、それはそれで美しいが、隣も向かいも同じような紙を漉いてくる。
「自分がやるとすれば、人の真似をしてもしようがない、他人と違うことをしないといけないのでは」と考えた。そこで、染料を買って赤、青などに染めてみた。
染めた紙や模様のある紙など、いろいろ工夫をして自分なりの紙をつくると大変面白い。毎日が新発見で、紙から抜けられなくなった。
「こんな紙は誰もつくったことがないだろうな」と自負も出来てくる。ところが、調べてみるととんでもない話で、和紙の歴史は一四〇〇年近くありますが、日本人はその間にあらゆることをやっています。本当の新発見はほとんどない。昔の人は偉いものだなと、ただ関心するだけでした。
そんなことをやっているうちに、日本画の絵描きの人が指導所によく遊びに来て、私のつくる紙をみて興味を持ってくれた。こちらもいい気分で肝胆相照らす仲になって、二人で仕事場を持って世間に打って出ようという話になった。
「富山県美術紙研究所」と名付けて、大阪や京都まで売りに行く。紙屋のおやじさんたちに見せると、「面白い、面白い」と言われて商売になった。六~七人の人を雇っていました。
ところが昭和一二年に支那事変(日中戦争)が起こって、町中を召集兵が楽隊と万歳の声に送られて出征して行くようになった。日常の物資も不足し、“皮革禁止令”が出て民間に皮革が回らなくなった。すると、革の代用品を和紙でつくれないかということになった。
東京の王子製紙の子会社が日本擬革製造株式会社を設立、革の代用品の製造をはじめた。
八尾の小さな会社でつくった紙──楮(こうぞ)の繊維に色繊維を混ぜたもの──に眼をつけ、会社を買収したいと言ってきた。「こりゃ楽でいいわ」と会社を売って、私は一社員になった。初めて給料をもらったが、しばらくするとどうも面白くない。つくりたい紙がつくれない。
ついにそこを飛び出し、ぷらぷらしていると、八尾はありがたいところで、町の旦那衆が「吉田桂介が遊んでおる」と言うことで、出資しあって紙漉工場をつくってくれた。それが「八尾紙業」有限会社。
ちょうど戦争がエスカレートしていく時期で、軍需物資をつくらないと、原料も薬品も配給されない。仕方ないので軍隊手帳や風船爆弾の紙までつくった。一〇人ほどで手漉きの紙をやろうと思っていたのに、五〇人くらいの人を雇って盛んであった。
国を建て直そうと、みんな考えた
戦争が終わると、ただ懸命に仕事をしただけなのに、軍の仕事で利益があったとされ、税金で全部持っていかれ、また、何もなくなった。
生活物資も食料もない時代だったが、私は「このどん底に落ちた日本の国をどうして建て直すか」と一生懸命、考えた。
八尾の町で、日本の国のことを考えてもしょうがないかもしれないが、その頃はみんなが日本のことを考えた。
戦争に負けて土壇場にあって、どうしようかという時に、自分の体なんかどうでもいい、日本の国を建て直そうという気持ちが、みんなにあった。
食料もなかったので、川原へ行ってスベリヒユなどの草を採ってきて米に混ぜて食べて頑張った。世の中にモノがなかったので、つくれば売れる。
なかでも紙で一番売れるのはチリ紙だった。そこで、八尾紙業も機械を導入しチリ紙を量産しようということになった。
美しい紙には、楽しみがある

日本の国がはじまってつい最近まで、手仕事でないものなど一つもなかった。
明治初期から機械製紙が発達してきたが、手仕事の和紙は「世界でこんな立派なものはない」というほどの紙が出来る。
だから、その手仕事に関わっている者が、機械で紙をつくるのは潔しとしない。わが意に反する。それに機械紙は八尾でなくてもどこでも出来る。
八尾は、やっぱり手仕事でいったほうがいいのではないか、と考えた。
手でつくって、いい紙ができればうれしい。いいものをつくろうと一生懸命にやる。美しい紙には楽しみがある。
苦しみもあるけれど、楽しみがあるという仕事がいい。
機械でチリ紙を量産して経済の利得ばかりを追っている仕事に、俺はついていけないわい。そう考えて、機械がちゃんと稼働するのを見届けて辞めた。浪人である。
私自身は、手でつくる紙の良さ・面白さに取り憑かれていて、仮に東京へ出て他の仕事についたとて必ずここに帰ってくるな、という思いがあった。
帰ってくるならよそへ行く必要はない。この仕事を続けるだけである、と決意した。昭和二一年のことだった。
日本の美しい色とは何か?

もう一回、紙工場をつくろうと思うものの、お金は一銭もない。
しかし、世の中はありがたいもので、今度はうちの親類に泣きついた。それでもまだカネが足りない。
富山に、山田昌作さんという北陸電力の元社長で、富山経済界の大御所だった人物がおられた。当時三一歳の私は、全くの向こう見ずで怖いもの知らず。この人にお願いに行こうと思った。
といっても山田さんは雲の上の人。それを、知遇を得ていた翁久允(おきなきゅういん)という富山きっての文化人の方に、お願いして紹介してもらい、山田さんに会うことができた。
「和紙は、二千年の日本文化を担ってきた大事な素材。今、国は乱れに乱れて日本文化の存続も危うい。和紙は日本の国のために絶対必要で、これを建て直したい」。そのようなことを本気で思って、丸坊主頭の若者が山田さんの前で一生懸命に言ったのだと思う。
山田さんは、すぐに銀行に話しをして資金を出してくれた。当時、電気ビルの社長だった山田さんの部屋はサロンのよう。そこに出入りする若い経済人に「君らもみんなお金を出せ」と声を掛けてくださった。
昭和二三年、大きな民家を移築して工場にし、仕事をはじめた。株式会社「越中紙社」のスタートである。小さな会社だけど、株主の毛並みは大したもんでした。
念願の手漉きの紙をつくるのだが、色の白い紙をつくっていては競争に勝てない。今までにないような紙をつくろうと、染色紙をはじめた。染色紙は、紙に染料を入れればできるが、ただ赤や青いだけでなく、日本には古来から日本の美しい色がある。
いかに美しい紙をつくるか。美しい色とは何か?たとえば能の装束がある。実に美しい鮮やかな色だが、しかしみんな落ち着いた色をしている。
決してけばけばしくない、しっとりとした色合いで、華やかさと渋さを出している。それをいかに紙に表現するか。難しいがそういう紙をつくろうと思った。
“民芸”運動 柳宗悦・芹沢銈介との出会い
幸いなことに、染色については、越中紙社をつくる七~八年前から柳宗悦という先生をよく知っていた。
柳先生が毎月発行されていた『工藝』という雑誌があって、表紙は布などを使い、本文は和紙、全部が手づくりだった。
装丁は染色工芸家の芹沢銈介(せりざわけいすけ)先生が担当されていた。

一〇年間に一二〇冊刊行されましたが、世界で最も美しい雑誌であると言われている。
それは和紙、木工、漆、織物、陶芸など民衆がつくった器物に、こんなに美しいものがあるという“民芸”理論提唱の本だった。
当時も高価で、とても買えなかった。富山に柳先生に心酔されている人がいて、雑誌を見せてもらっていると、「和紙は、日本文化を支えてきた最も重要なものである。
世界のどこを探したとて、このような美しい紙はなく、ほかの工芸品に比べて何ら遜色のない高みにある」と書いてある。それを読んでわが意を得たりと大感激した。
若いということは偉いことで、恐れを知らない。
東京の日本民芸館に一面識もない柳先生を訪ねた。「私は和紙をつくっていて、生涯を和紙で貫こうと思っているのですが、どういう紙をつくって、どんな方向へ行ったらよいでしょうか」。田舎出のぼんぼんを、先生は一人前の扱いで書斎に招き入れてくれた。
奥からいろんな紙の見本を抱えてきて、こういう紙があるよ、こんな紙も面白い、と一つひとつ見せてくれて、こう言われた。
「これらはみんな昔からの手法を忠実に守ってきた真面目な紙である。だから美しい。みんな草木染めだよ。今、世の中には色の白い、弱い、安い紙がたくさんあるけれど、君がやるときは伝統をしっかり守った昔のような紙をやりなさい。そうすれば間違いない」。
柳先生の民芸理論を中心に、陶器の浜田庄司、河井寛次郎、版画の棟方志功、木工の黒田辰秋などの第一級の方々がきら星の如く集まっていた。それらの先生方とも知遇を得た。なかでも私が大きな影響を受けて生涯の師と仰いでいるのが芹沢銈介先生である。
柳先生の紹介で、芹沢先生の和紙染めの仕事に八尾の和紙を提供することができた。
そのうえ、先生のもとに出入りするようになって五~六年後、先生から型染めの技法を学んだ。修得するのに何年もかかったが、“型染めカレンダー”の製作のお手伝いをするようにもなった。
この仕事は今も「桂樹舎」(紙づくりの「越中紙社」に対して、加工の仕事場として昭和三五年に設立)の大事な仕事として残っている。
話は少し戻るが、雑誌『工藝』に「植物染料」の特集があった。
それには、日本も中国も欧州も、化学染料が出来る前の色は美しい。化学染料が入って、アクが強い嫌な色のものが世の中に氾濫した。自然な色合いの植物染料は、何を原材料にして、どういう染め方で、どんな色にするかという研究が克明に書いてあった。それを入手して、自分で紙に染めて確かめる、というようなことを自分なりにやるようになった。
ある時、京都の大学で日本上代の染色文化を研究されている上村六郎という先生が、八尾の紙を調べに見えたときに、植物染めの紙を見せた。
「何で八尾でこんな紙ができるんや」とビックリされた。以来、先生と親しくなって、泊まり込みで染色のことを習い、研究のお手伝いもするようになった。このおつきあいは先生が亡くなるまで四〇年余りも続いた。
『日本文学全集』に救われた
さて、越中紙社であるが、設立後二~三年はずっと赤字。どうするかと思っていたら、救いの神が出てきた。
八尾の町には紙問屋が何軒もあって、山手(中山間地)の紙を富山の売薬屋さんに売る。私は、その紙問屋を飛び越えて、東京へ行った。空襲で東京は瓦礫の山。街は荒廃していた。そういうところへ行って紙を売ろうと、出版社廻りをはじめた。
和紙を使ってくれるのは出版社が多いと思った。瓦礫の山を歩いて、出版社を訪ねる。講談社、岩波書店、中央公論、文藝春秋、河出書房・・。一流出版社もみんなバラックでした。
受付で「富山県の八尾から来ました」と言っても、門前払い。一度行くでしょう、次また行くの。ハイまたダメ。次また行くの、何度でも。商売というのは熱心さと押しの強さ、これだと思う。
そのうちに「なんだ、また来たのか」という顔をして二階から下りてきて、ぱらぱらっと見本だけ見てくれる。「ハイ分かった」。それだけだけど、懲りずになんべんもなんべんも行く。
東京まで行くのは大変だったですよ。切符の制限があるから。八尾なら東京行きの切符は一日に二枚か三枚しか買えない。だから朝4時起きで一番に並ぶ。かろうじて切符を手にいれても、汽車は人で一杯。客車の床に座る。眠たいから椅子と椅子の間にはまりこむ。
そうして月に一回づつ行く。すると「お前また来たのか、まぁ入れよ」と、奥に入れてくれる。見本をパラパラと見ながら、「今、こういう企画がある」と話が出る。
助かったのは、河出書房(現在の河出書房新社)が、いの一番に『日本文学全集』全五〇巻を出した。思い切った冒険だった。その全集の表紙の「見返し」(表紙を返したときに見える内側の部分)に、うちの和紙を使ってくれた。
ところが出してみると、日本中が活字に飢えていて増刷に次ぐ増刷。こちらも忙しくなった。その後の『世界文学全集』も増刷に。越中紙社はようやく軌道に乗った。植物染めの色合いの紙としては、日本のどこもつくっていない紙をつくった。
植物だけでは色が合わないので、染料を工夫して植物染めに近い色を追求していく。和紙の染め紙は、こんな渋い色だということに、日本中が認識していく。
すると、次にだれかが染め紙をやるときには、真似をして同じ色合でつくってくる。これは嫌だね、困る。ここ一〇年余り前から、機械製紙が和紙の世界にも進出してきた。それで染色の紙を出す。
これまで越中紙社が苦労してつくってきた色あいを、全部真似してくる。これはさらに困る。それに対抗して、こちらはまた新しい工夫をしなければならない。
唐傘と障子が和紙を支えていた
つい最近、越中紙社は閉鎖しました。ソロバンが合わない。
和紙は、聖徳太子の時代に、韓国から日本に技術が入ってきた。以後、日本で大変な発達をしました。
当時から、仏教によって国を興すということで、お寺がたくさん造られた。お寺ができれば坊さんもたくさんいる。遣隋使や遣唐使を派遣して経典をたくさん日本に持ち帰る。それを全部書き写してお寺に配布する。「写経事業」は、膨大な数が必要で紙もたくさん要る。
朝廷直々の紙漉場がつくられたが、越中にも早くから紙漉の技術が伝わった。一〇〇〇年も前の平安朝の頃には紫式部や清少納言などによる女流文学が興り、また書や絵画など芸術性の高いものがたくさん生まれた。
和紙がなかったら日本の文化はない。
その和紙は、昭和四〇年代にぱったりとダメになる。明治の終わり頃、紙を漉いていた家は全国で五万四〇〇〇軒ほどあったが、昭和の初めには、一万三〇〇〇軒弱に落ち込んだ。昭和四〇年代に、毎日新聞社が『日本和紙大鑑』という書物を出しました。
日本中の紙を集約し後世に残そうと、社運を賭けて非常に大部な本、全五巻をつくった。
その時、もう内閣統計局が統計もとらなくなっていたが、新聞社の調べで八〇〇軒しかなかった。日本中を駆け回って、昨日まで紙を漉いたところまで掘り起こしても八〇〇。
昭和四〇年代に世の中がコロッと変わった。それまでは傘といえば、日本中が唐傘(からかさ)。全世帯が三〇〇〇万戸だから、一戸に三~四本としても一億本はあった。
蛇の目、番傘、日傘、子供傘などみんな和紙を貼って出来ている。唐傘の紙は、丈夫で張りのある日本の紙を代表する本当に立派なものだった。
その唐傘がこうもりになって、自動的に開く傘に変わった。私たちの目の前から唐傘が姿を消し、唐傘紙を漉く人がいなくなった。
次に障子紙が消えた。建築様式の変化で、障子や襖がドアやサッシに置き換わった。わずかに残った障子紙も、パルプを原料に機械で量産されるようになった。色が白くて安ければいいと。
楮を原料にした手漉きの紙は何千円もするが、機械紙は四〇〇円ほど。すぐに破れても、色が白ければ「きれいになったわね」。
そういうことで、手漉きの一度張れば三年も四年ももつ紙が売れない。そうして障子紙もダメになった。
手仕事は一つ躓くと将棋倒しに

かくて、手漉きの紙は、本当に狭い隙間のような需要を拾っていかねばならない。
それに追い打ちをかけるように機械漉がだんだん発達してきて、手漉きの紙の分野を侵してくる。
手漉きの職人が一生懸命考えて「この紙はいいぞ、こんなのができた」と言って出せば、あっという間に機械漉が真似をする。そうすると手漉きの人たちが活躍する場がない、生活する場がない。
八尾の山手に五〇〇軒ほどあった手漉きの農家も、昭和四〇年代には一軒もなくなった。そうすると、原料の楮を栽培しなくなった。かろうじて残った私たちが、紙をつくろうとしても、自分の国に原料がない。あっても量が少ないから値段が非常に高くなる。
仕方がないので韓国やタイへ行って探す。しかし、日本の楮とは質が違う。日本の楮のように立派な紙ができません。日本の紙幣は、楮とミツマタという植物の繊維が入っているので、世界で感心されるほど立派。外国の紙幣と比較すると、すぐに分かります。
次に困るのは、道具をつくる人がいなくなったこと。たとえば紙を漉くスダレは、とても精巧に出来ている。竹を細く細くしごいて丁寧に編まなければならない。紙のムラが生じないようにピシーッとしたものにするには、高度な技が要る。
そういう仕事をする人やヒゴをつくる人がいなくなる。漉く木枠をつくる人もいなくなる。これも狂わないようにつくるには技術がいる。そういう具合で、手仕事は一つ躓(つまず)くと将棋倒しにダダーっと倒れて行く。
私は七〇年間近く紙をやってきて、苦労したという経験はない。
自分の仕事であれば苦労は苦労ではない。ただ、今日に来て、原料と道具がないのにはこれは苦労する。
竹のスダレにしても、中国にも竹はあるが日本ほど丈夫ではない。もっとも窮すれば通ずと言って、金網をつかってスダレに近い道具を考えた。
問題は山積しているが、一つひとつ克服して和紙をまだまだ続けたい。
八尾の特産品にして行きたい。富山県の特産品にしたい。なおかつ日本の特産品にしたい。
日本の国は、楮や三椏(みつまた)のような立派な原料があり、こんなに優れた技術があり、こんなにいい紙ができるんですから、これは世界に誇っていい紙の国です。これを絶やすことなく、ずっと残して行きたい。
「おわら」と景観を、私たちの力で
私は、八尾に生まれて、八尾のご恩になりっぱなしで来ていますが、こんないいところはないと思う。
八尾の発展には私たちが、何ができるのかを考えないといけない。一番大きな問題は、やはり「おわら」。おわらは、年間二〇~三〇万の人が来る。
一度おわらの唄や音色を聴くと、一ヶ月くらい頭のなかで三味線の音色、太鼓の音が鳴っている。あの踊りの優雅さ・幽遠さを見ると、こんな踊りが世界のどこにあるのかと私自身が感激する。
八尾のおわらは、極めて日本的なものであり、世界的なものでもあります。こんな民謡はどこにもない。思うだけで涙が出るほど魅力的です。
また、井田川から見る石垣も素晴らしい。あれだけの石垣を八尾の人たちはみんな自分でつくった。補助金などない江戸時代にである。
諏訪町通りは、店屋もないのに、みすぼらしくない。本当に立派なものです。おわらと一体となって迫ってきます。
八尾人は、もっともっと知恵を発揮して、来た人に楽しんでもらうことを考えないといけない。人混みでおわらが見られない、不満を残して帰っていかれるのではなく、来た人みんなに満足してもらう。それを考える。「なんともなりません」ではダメです。これ、やりましょう。
一〇〇万人の人たちが来て、おわらを満喫してもらう。人が集まれば、また町の人口が増えてきますよ。それを、自分たちの力でこれを実現する努力をしていかないといけない。
そうすると行政も、なんとかしなきゃいけないと応援してくれる。そういうことを、このごろは切に感じます。
質問:和紙文庫は、日本でも珍しい和紙の博物館ということですが?

「工芸」という観点で、紙と紙製品を収集したものとしては、あそこまでやったところは日本でも珍しいでしょうね。前々から集めていたが、それを展示してみなさんに見てもらおうという大それた考えはなかった。
ところが、芹沢銈介先生から「八尾でとにかくつくりなさい。私も協力するから」と言ってもらえて、「ありがたい。やってみます」と準備を始めた。先生の言葉がなければ出来なかったかもしれない。
第一に、博物館には収蔵品が必要ですが、芹沢先生が一生懸命集められたものをくださった。京都の上村六郎先生も自分のコレクションを提供してくださった。
そういう具合に、みなさんの力でもって出来ました。私は本当に、そういう点は幸せであります。

おかげさまで、柳宗悦、芹沢銈介、浜田庄司、上村六郎、寿岳文章、北原白秋といった日本の第一級の先生がたに始終会っておれた。
先生たちは、いずれもエベレストのように高く聳えている大山塊。こっちはカトマンズ辺りでウロウロしている。でも、先生たちと巡り会わなければ、カトマンズにも行けなかった。
芹沢先生の許には長い間、通い続け、工芸に対する考え方、制作態度、美術品への対し方などを学びました。
私は、絶えず先生たちを仰ぐ。「これをやる場合に、先生だったらどう考えられるか。先生が見られたら何とおっしゃるか」。それが常に頭を離れません。
もう一つ、芹沢先生の教えに「物事はいま一度押してみなさい」というのがあります。事を図るにはいい加減にしない。作品づくりは当然のこと。そこへ行き着くまでにはもう息切れがしているのだけど、それを「もう一歩を進めよ」と。
実行は難しいですが、肝に銘じている言葉です。