八尾ふるさと発見塾:特集1

特集1

「江戸から見た八尾の文化“その違いと共通点”」 

荒井 修


 「八尾ふるさと発見塾」の活動を始めて2年目の平成19年3月。講師に浅草の扇子の老舗「文扇堂」の4代目で、腕利きの扇(おうぎ)職人でもある荒井修さんを迎えて、「江戸から見た八尾の文化“その違いと共通点”」と題したお話を伺いました。

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荒井さんは、江戸文化に造詣が深く、デザイン専門学校の講師もされています。

しかも、当日は「アシスタント」として、女優の山口智子さんを伴って登場! そのことを知らされていない参加者の間にはざわめきが起こりました。

今も変わらぬ人気の女優さんをアシスタントにしてしまう荒井さんとはいったい何者なのだ?!・・ということで、当日の講演記録を基に、あらためて荒井さんと彼が語る江戸の魅力に迫ってみましょう。

みなさんが落ち着かないと思いますので、まず、山口智子さんがこうして八尾にこられることになった経緯について、最初にお伺いしたいのですが。







yamaguti01.jpg (山口)  去年、荒井修さんと出会って、和の文化についてお話をきかせていただき、それ以来、日本はいいな、本当に日本はすごいなと、思いを深めています。

修さんにいろいろなところへ連れていってもらったり、その土地の文化や歌にまつわるさまざまな話を、お伺いして勉強させていただいています。今は修業中の身です。今日は何かお手伝いをさせていただければと思って、ついてきました。



(荒井)  私は東京の桑沢デザインスクールで、江戸の美意識や江戸のデザインなどの授業を毎週やっていて、智子さんがそれをずっと聞きたいと言うのです。

生徒には当然月謝を払ってもらっているので、月謝を払わないで聞かせるためにはどうしたらいいかということで、アシスタントという形をとりました。毎週、どの生徒よりもノートをとって真剣に聞いてくれているので、ありがたいと思っております。


そうでしたか。アシスタントさんの出番もあることを期待して、さっそくお話をおききしたいと思います。


■西の京都と東の江戸──文化の違い

富山は東の文化と西の文化が混ざっている場所ですが、西の京都と東の江戸は、文化が対極的に見えます。根本的に違うところはどこでしょうか?


 京都というのはどちらかというと公家(くげ)の文化で、お公家様は、普段、顔を会わせることがないわけですから、どこか遠くのほうで見ているとか、あるいは、あこがれだとか、ひれ伏すというような感じで文化を見ているわけです。

 それに対して、江戸の文化は、そんなに遠いところとして見ていません。江戸文化は武士あるいは町人の文化です。


当時の江戸の町はどのような状況だったのでしょうか?
 

 江戸は100万都市でした。これは世界で1番なのです。そのころロンドンは86万人、北京は90万人、上海は5万人、パリが54万人、ニューヨークはわずか6万人しかいませんでした。江戸は断然トップでした。

そして、その当時、もう水道の水があったのです。水道といっても、別に蛇口があるわけではありません。飲むための水を引いたものです。井戸は洗濯物に使ったり、物を冷やすために使ったり、そういうものが多かったようです。

arai05.jpg ですから、江戸っ子のたんかで「おいらなんぞは、おめえ、江戸の水道の水でもって産湯をつかった」などと言います。そういうぐらい水道というものがありました。また、100万都市ということで、いろいろな形での整備ができてきました。ということで、江戸は今になってすごく評価が高くなっております。

 「小京都」とともに、「小江戸」といわれる町が全国にありますが、江戸文化が全国に広がっていったのには何か理由があったのでしょうか?

 京都の文化から江戸の文化に変わっていったところがあるのですが、それは参勤交代という制度があったからです。

参勤交代で日本全国からいろいろなお侍さんたちが、みんな藩ごとに来るわけですが、来たのは侍だけではないのです。

加賀から大名行列をしてくると、加賀の飲食店や呉服屋さんなどもみんな来てしまうのです。一緒に連れてくるのです。ですから、江戸には加賀屋などという名前があります。伊勢から連れてくると伊勢屋というのがあるのです。

 参勤交代で人がたくさん来ますが、何年かたつと、今度はその人たちが自分の国へ帰らなければいけません。すると、今でもそうですね。帰ると、お江戸で「今こんなものがはやっているのよ」と。帰ってくると、大概、昔も今も同じことを言います。

 江戸というのは、日本中の国から人が集まった見本市みたいなところですから、各藩の、今度こういうものが開発されたということは、すぐに広まります。


江戸で何が流行っているかというのは、どうしてわかったのですか?テレビも無いですしね。情報源はなんだったのでしょうか?


 当時、情報としていちばん早かったのは、歌舞伎と寄席だそうです。歌舞伎には、「助六」というお芝居があります。助六というお芝居の中に、「朝顔仙平」という男が出てくるのですが、これは、当時江戸でいちばんはやったお煎餅屋さんの名前です。

ですから、いろいろなコマーシャルも出てきます。今何がはやっているということを、すぐに取り入れるのが歌舞伎であり、寄席であるわけです。人びとが情報を仕入れるには、歌舞伎と寄席がいちばんよかったとされています。

■しゃれ(洒落)の限りを尽くした江戸の町

歌舞伎や寄席は、江戸では庶民の文化だったということでしょうか。このほかに江戸の代表的な文化としては、「遊廓(くるわ)文化」がありますが、私たちにもわかるようなもので現代まで伝わっているものがありますか?


 遊郭はいわずと知れた吉原です。吉原には吉原大門があり、そのすぐそばに、紙洗橋という橋があります。

紙洗橋で作っているのは再生紙です。古い紙をトロトロに溶かして再生します。紙をすく職人も最初は忙しいのだけれども、一度すいてしまうと、しばらくの間そのまま干しておかなければいけません。これを「干(ひ)やかす」といいます。干やかしている間、自分はやることがないと吉原の中に遊びにいきます。格子の中にいる女性を見て回ります。

 そこには、おばさんというのがいて、そのほかに妓夫太郎(     )というのがいます。妓夫太郎は客を引く人です。「どうです。えー、きれいな人がいるんですよ。どうです、あなた、この人」ということを言います。そういうのを呼ぼうとすると、おばさんは「よしなよ、あの人、呼んだって上がらないよ、ひやかしの客だ」と言います。この「ひやかし」という言葉の語源は、実は吉原から出ています。

 また、昔、海苔(のり)は、ほとんど佃(つくだ)煮にして食べていましたが、紙洗橋ですいているのを見て、海苔もあのようなことをやってみたらどうだろうというので、海苔をすいて焼きのりができて、これが浅草海苔ができた理由になっています。

 このような文化をいろいろな人が江戸の中から吸収していきました。

 言葉の源がわかるとおもしろいですねえ。その言葉を使うたびに、当事の生活が思い出されて楽しめます。江戸っ子というと粋(いき)で洒落(しゃれ)、と言われていますが、そういう粋な話を少し聞かせてください。

 しゃれ(洒落)ということでは、例えば「雑俳」(ざっぱい;川柳などこっけいな俳句などの総称)というのがあります。これは「雑な俳句」と書きます。

実は、雑俳は100種目以上と、大変種目の数が多いのです。この中でいちばん簡単なのは何かというと、「しゃれづけ」というものです。「地口あんどん」というあんどんの絵では、閻魔(えんま)様が舌を出して、その舌で大きな石を結びつけています。その脇には、「えんまの舌の力持ち」と書かれています。これは「縁の下の力持ち」のしゃれです。

 このしゃれづけの中で、何でもしゃれを言えばいいのかといって、だじゃればかり出されると困ったものなので、どこかにしばりを入れます。例えば、飲み物に関するしゃれを言ってくださいと言います。

 ジンジャーエールという飲み物がありますが、「ジンジャー(神社)仏閣」というのもあります。水のことを「ウォーター」といいます。「ウォーター(負うた)子に教えられ」というのがあります。「しょうちゅう(ちゅうちゅう)、たこかいな」、おしるこの「しるこ(シルク)ロード」、「ミルク(みろく)菩薩」、「昆布茶(こぶちゃん)の親は林家シャンペン(三平)」というのもあります。これは昆布茶とシャンペンと両方掛けています。

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 しゃれは、デザインの世界にもたくさんあります。江戸には町火消しがいましたが、火消しのまといの中にも、しゃれは随分あります。上が丸くて、その下に升みたいなものがついたまといがあります。これは上が消し玉で下が升で、「消し升」というしゃれなのです。

 歌舞伎の世界にもいろいろなのがあります。市川団十郎家の柄で「かまわぬ」、「鎌」があって「○(輪)」があって「ぬ」がある。これは、2代目の市川団十郎がすごい人で、ある大名に呼ばれて、「市川家でやっている荒事は、一体どういうものか」と聞かれると、「ここでやってもいいですか」と言うのです。「いいからやって見せろ」と言うと、そばにあったものをみんな投げてしまうのです。放り投げます。障子は破くし、ふすまは汚す、蹴飛ばす、いろいろなことをするのです。

すると、周りのものが「無礼者、そこに直れ」と家来たちが言います。すると、大名が「かまわぬ」と言ったというので、それから「かまわぬ」のデザインができてしまいました。

 また、歌舞伎界でよく使うのが格子のデザインです。横に1本、間を置いて6本、縦に1本、そして6本。この間に、平仮名の「ら」の字だけ入っています。これは「市村格子」といいます。1(いち)と6(む)です。そして「ら」が入って「市村格子」。これは市村羽左衛門のところで使っている市村格子です。

また、江戸のおしゃれな人たちは、くしにある蒔絵と、男持ちの印ろうやたばこ入れ、矢立てなどを同じデザインにします。ペアにします。まさか、男が頭にくしを乗せるわけにはいかないので、ほかのもので同じデザインにしてペアルックの始まりです。

そうなると、そういうものにあこがれる人がたくさん出てきます。格好いいな、自分の国へ帰るときに、今度江戸のみやげにそういうものを作らせて帰ろうということになります。

このようにあらゆるものに、たくさんのデザインが出てきますが、そういうのが江戸の町だと思ってください。江戸の町は、もうしゃれの限りを尽くしているような町です。

■「おわら」と「都々逸」(どどいつ)

遊び心というか、本当に面白いですね。それが洗練され粋な文化になっていったのでしょうか。江戸はいろいろな人が集まってきたところだから、文化も拡がっていったのですね。八尾にも江戸時代から明治にかけて裕福で、人の交流が多くあった時代がありました。


 八尾でも、養蚕の蚕種というのですか、東北からお蚕を持ってきて、ここの人はすごいですね。蚕種を富山の薬売りと同じように、いろいろなところへ預けてくるという、先用後利の形態をとって、大変なお金持ちになったのでしょう。

 富山の薬は、置き薬の袋を入れるので、和紙もどんどん生産を上げます。そうなってくると、この町はすごいことになってきます。お金がたくさんできます。置き薬の形態をとっているということは、いろいろなところに行きます。ですから、この町にずっといるわけではありません。

いろいろなところへ、どんどん外へ出て行くということになると、町の文化が変わってきます。そして、裕福になったものを何に使うかというと、文化に使っている部分がすごくあります。文化にそういうお金をどんどん使うようになっていきます。

 「おわら」を見ていますと、「おわら」の中にも江戸の影響を非常に受けた形があります。「おわら」の中の文句が、ちょうど都々逸(どどいつ)と同じなのです。「おわら」も都々逸も七・七・七・五です。そこに、文句を乗せてくるという乗せ方も、実に江戸の都々逸の文化です。実は都々逸は、本当は江戸ではなくて、名古屋で始まって、それが江戸に来るのです。

 江戸に来たときに定着させた人は、実は私の先祖で、都々逸坊扇歌というのがいます。扇歌は江戸の人ではありません。水戸藩のお抱え医師の四男坊で、扇歌自身はお医者さんではなかったのですが、江戸に出てきた都々逸を、江戸の芸に変えてしまった人です。

■律儀で、他人を慮(おもんぱか)る江戸人の心意気

やはり、1つの文化には多様なものとの出会いがあるのですね。現在、江戸の生き方が、いろいろな方面から注目されていますが、庶民のポリシーみたいなものはあったのでしょうか?


 江戸の人間は非常に律儀でした。どう律儀かというと、江戸の言葉の中に「死んだらごめん」という言葉があります。「死んだらごめん」は何かというと、約束をたがわない。「約束は守るよ。だけど、死んじゃったらごめんな。死なない限りは絶対約束を守るから」。これが「死んだらごめん」ということです。実によくできています。

 また、マナーとしていろんなことを言っていますね。

たとえば、「お心(しん)肥やし」という言葉があります。これは何かというと、食べ物は体を肥やすために食べますが、学問で自分を肥やしなさいというのを「お心肥やし」といいました。

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 「三脱の教え」というのもあります。脱線の「脱」という字で、「三脱の教え」は何かというと、初対面の人に年齢、職業、身分を聞いてはいけませんということです。そういうことを先に知ってしまうと、その人を見る目、心眼がくもるからだ、というのです。

 もう一つ、「結界」という言葉があります。よくおじぎをするときには扇子を前に置いておじぎします。これは結界なのです。境目。ここにポンと置いて、これよりそちらは上座、私はこの下、下座にいますということを表しています。自分の立場や力量、器量だとかいろいろなことをいいますが、そういうことをわきまえる。他人の領分みたいなものをちゃんと立てるという、それが結界のわきまえです。

また、混んでいるところ。風の盆の日などは非常に混んでいますね。そこを堂々と歩いていると、バーンとぶつかります。そういうときに江戸の人間は、そのままぶつからないように「肩引き」をやります。肩引きというのは、ぶつかりそうになったとき、お互いに肩を引きます。そういうことでぶつからないようにするのですね。

 また、階段のこちらから上っていきます。向こうから下りてきます。そういうときはどちらが優先でしょう。江戸では下りが優先なのです。下りの人は下りてきます。上りの人はそこで待っていなければいけません。下る人と同じ段まで来たときに、お互いに会釈してすれ違います。会釈するときに、お互いにこうなるから、ちょうど肩引きと同じ形になります。

 「傘かしげ」というのが、今テレビでもやっています。狭い路地で、向こうとこちらから傘をさしたままで来ると、お互いに傘がぶつかります。今のきれの傘やポリの傘と違って、昔は紙の傘でした。こういうところがぶつかると、どちらかの傘に穴が開きます。

ですから、傘はすれ違うときに、相手の人と逆の方向に、お互いに傘をかしげます。そういうことで、相手がぬれない。外側にかしげれば、相手がぬれるわけがありませんから、このようにかしげます。向こうからの人も外側にかしげると、お互いにぬれないし傘も破れません。

 どこかに奉公に行く。お金がもうかったら、かごに乗りたいと思います。

そのために一生懸命努力をします。今でもそうです。いつかはタクシーで行きたいと、若いうちはそう思うものです。あの野郎のところに、ハイヤーでサーッとわきに横着けしてやりたいという人がいますけれども、そういうのはやぼの骨頂なのです。

人の家の前に横着けするようなことはしない。かごもそうです。かごも、目指すところはあそこなのだけれども、家の前にかごを置くわけにはいかない。もう少し手前で降りると言って、勘定だけして、そこから歩いていきます。これが江戸人の心得だといわれています。

 また、私が何かこの辺で荷物をばっとこぼしてしまいました。たぶんだれでも拾ってくれます。「どうもありがとうございます」と言ったら何と返事しますか。「どういたしまして」。これは普通です。実に普通でけっこうなのです。ただ、どういたしましてという言葉のほかに、もう一つあります。「お互いさま」という言葉です。この言葉の温かさというか、「お互いさまだからいいんですよ、そんなことは言わなくて」みたいな。お互いさまという言葉の美しさ。

 自分が読んでいて気に入った本がある。その本を、「どうぞ、これ読んでください」と渡します。すると、読んでくださいと言われて、「忙しいのに、読んでいられないけど、読んでくれと言うのを、読まないわけにはいかないな」と思います。読んでくれと言われた人に、そこでプレッシャーがかかってしまいます。そういうときには、本を渡すのにどういうふうに渡すかというと、「ご随意に」と言います。どうぞ自由にしてください。読みたくなかったらそのまま捨ててもいいのです。だれかにあげてもいいのです。「どうぞ、ご随意に」、これはプレッシャーがかかりません。

 まだ、いろいろなものがあります。「もったいない」は、今いろいろなところでいわれていますけれども、例えば、昔浴衣などはおむつにしたり、雑巾にしたり、最近みたいに紙も再生紙にしたりするという、そのような意識が江戸人にあったということです。


今伺った江戸の気質みたいなものは子どものころから教えられていたのでしょうけれども、どんなふうに教育されていたのでしょうか?


 教育でいうと、「三つ心」といいます。3歳までに、まず心を教えます。人に会ったらあいさつをしなさいというようなことを教えます。6歳までに、実際にこうしなさい、ああしなさいという心の部分の中身を教えてしつける。これは、はしの持ち方一つもしつけになります。

 9歳になると言葉です。言葉がちゃんとしゃべれるように。上の人に対して、下のものに対して。12歳になると字が書けます。よく、昔これはだれだれが九つのときに書いた字ですと。信じられないぐらいうまいのがあります。

 15歳になると「理(ことわり)」を教えました。理屈です。ものごとの理屈を教えます。すると、大体10代半ばには、りっぱな、どこに出しても恥ずかしくない子になります。そうなったときに、初めて奉公に行かされます。奉公に行って、そういうことができなければ、使い物になりません。

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■「おわら」は、男と女の役割が明確だから美しい

江戸には江戸っ子らしさ、ほかの土地にはやはりその土地ならではの気質というものがあるように思われます。


 いろいろ見ていくと、気質というものがどういう形で残るのかというと、不思議なもので、そこの土地の伝統文化の中に必ず残っています。

例えば、南部藩(盛岡)は面白いです。今でも盛岡の町には、自主警備みたいな形で消防団がものすごく確立しています。書いた「田」の三枚羽でそのまま残っています。一番組は盛岡も江戸も同じなのです。

また、お年寄りに対するしつけが、非常に行き届いたところだということが分かります。盛岡の人と話をしていると、非常にお年寄りに対して優しいです。また、マナーがものすごくうるさいところです。

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 僕は八尾の「おわら」を見ていて、本当によくこういうふうに残ったと思うのは、男性と女性の区別、これは差別ではなくて区別です。この美しさ、女性が本当に女性らしいでしょう。

「おわら」は特に。普段はどうだか知りませんよ。少なくとも、「おわら」を踊っているときの、女性の姿を見ていると、笠をかぶっているせいもありますけれども、すべからく、僕は踊っている人をみんな好きになります。

男の人は男の人で、みんな男性的です。本当に女性をサポートするというか、力を貸すというか。男の役割、女の役割があんなに明確に出ている踊りは、日本全国にないと思います。

男踊り、女踊り。それだけでも、まず、あまり聞かない言い方です。少しはあります。少しはありますけれども、このような盆踊りの形態の中では、男も女もほとんどの地域では一緒の踊りをとります。

 八尾で「おわら」を見たときに、男性と女性の差別がどうのこうのと世の中でよく言う人がいるけれども、差別ではありません。これは区別です。この区別がこれだけ徹底しているところは、まず今、世の中にそうそうないのではないか。これがそのまま、「おわら」の日ではなくても、日常的にあのようだとしたら、「おわら」の女性は日本でいちばんすてきだと思います。

あれはいいです。そういうような女性であってほしいと思います。

僕は、そういうことを大切にしているこの町が大好きですから、言われれば、このようにどこにでも出てくるということになるわけです。


ありがとうございました。荒井さんは、本当に扇職人でしょうか。非常に楽しい世界をいろいろと垣間見せていただきました。

昔の人たちは、言葉がものすごく豊かですね。単調ではないですし、断片的じゃないですね。それで、いろいろなイメージの遊びができたのでしょう。そういう豊かさは失いたくないですね。

八尾にも、そういうものがけっこう残っているようですので、ぜひそれを保っていきたいと思います。