やつお歴史・文化のおと:八尾曳山祭

八尾(やつお)ふるさと発見塾

おわら風の盆の里 やつおの人と文化・歴史・自然の再発見

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「八尾曳山」語り<まえがき>

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文/桐谷 正
写真/石黒 智一

1 はじめに

八尾町には、江戸時代から伝えられている大切な曳山が六台あります(写真参照)。これらの曳山はいずれも富山県の有形文化財に指定されており、私たちの先祖がのこしてくれた、すばらしい文化遺産です。


2 八尾曳山の起源

八尾曳山の起源は、江戸時代の中ごろ・寛保元年(1741)3月16日、下新町(注;八尾の中心部にあたる旧町は、10の町から構成されています)の八幡社の例祭がおこなわれた際、上新町が花山を作り、その上に業平人形(在原業平の人形)をかざって曳き回したのが起源とされてきました。

しかしながら、上新町に保存されている古文書を調べていくと、寛保元年以前の記述も見出され、さらに歴史がさかのぼる可能性も出てきており、今後、一層の調査研究が期待されます。


3 八尾町の町建て

 八尾町はかつて、八尾村と桐山村の二つの村に分かれていました。桐山村は主に農業によって成り立っている村でしたが、八尾村は農業生産とともに物資の交流が盛んで、近在の村々はもちろん、飛騨や加賀の国などとも交易をおこなっていたようです。

こうした地域的特性から、八尾村の肝煎(きもいり)であった米屋少兵衛は更なる商業発展を目指し、桐山村と合併した上での八尾の町建てを志しました。そして、富山藩が分封される前の寛永13年(1636)に加賀藩へ願い出て、八尾の町建てを成し遂げました。

それ以来、八尾の発展ぶりは目覚しく、町民たちは米屋少兵衛のことを八尾町の開祖として尊崇し、銅像を城ヶ山公園内に建ててその遺徳を顕彰しています。


4 曳山を生み出した八尾の財力(御納所・十免の地)

 町建てをきっかけに経済活動の隆盛を極めた八尾町は、「御納所」(ごなんどころ)あるいは「十免(じゅうめん)の地」と呼ばれるようになりました。

「御納所」とは「富山藩の財政蔵」という意味で、山や平野、さらには海の産物がことごとく集まり、交易される場所として八尾が位置づけられてきました。

また、「免」は税率をあらわす言葉で、「十免の地」とは定められた土地の産高すべて(十割)を納める土地のことを意味します。八尾が富山藩から「十免の地」と呼ばれ、破格の納税率を可能にした背景には、渓口集落としての地の利はもとより、八尾商人の時局を見抜く先見性があったからこそのことです。


5 八尾曳山は江戸期町人文化の集大成

曳山の人形神をはじめ、曳山全体を飾る彫刻や彫塗、漆工、金工のいずれもが、八尾町人が築いた財力を基盤に築き上げられており、他の曳山のように、大名や寺社など、時の権力者や為政者から拝領した曳山ではありません。こうしたことからも理解されるように、八尾曳山は越中における工芸、建築、美術等の粋を網羅した、江戸期町人文化の集大成として位置づけることができます。

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曳山触れ太鼓

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文・写真/桐谷 正



 曳山祭礼日の当日、早朝というより、まだ深夜といったほうがよい午前三時。各町の公民館では触れ太鼓が鳴り響く。

 ひとしきり公民館前で太鼓が打ち鳴らされた後、太鼓が架けられた担ぎ棒を二人の若者が前後に分かれて担ぎ、打ち手が撥(ばち)を握って公民館を出発する。

 まだ暗い中、彼らは祭礼日が訪れたことを町内中に触れ回るのだ。
道行く車もなく、太鼓の音と彼らの足音が町を巡っていく。

 少し耳を澄ませると、ほかの町内でも太鼓が打たれはじめたのか、低いながらも、はらわたに響く音が聞こえてくる。

 古代の戦いにおいて、太鼓が打ち鳴らされるのは攻撃、あるいは行動の開始を促す時で、逆に退却する時は金羅(きんら)や銅鑼(どら)が連打された。

曳山の触れ太鼓はこの古風に則り、これから曳山神に神前囃子を奉奏し、曳山の組み立てを開始することを知らせるためのもので、八尾曳山の歴史が始まってから今日まで、営々と受け継がれてきている。

 触れ太鼓の一行が曳山総代や曳山大工など役員の家の前まで来ると、太鼓を担いでいる担ぎ手は歩調をゆるめ、打ち手はとりわけ力を込めて太鼓を鳴り響かせる。

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「ゆめゆめ遅れることのないように!」との思いを込めて。

 遠く近くに聞こえる太鼓のリズム「ド ド ンガ ドン ドン」に耳を傾けていると、あたかも「ド ド ンと 出て 来い」や、「曳け 曳け ドン ドン」と聞こえてくるから不思議なものである。

触れ太鼓の一行が町内をひと巡りしてきても、夜明けにはまだ間がある。


曳山彫刻;上新町

上新町大彫「関羽、書を読む図」                    

文・写真/桐谷 正

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 上新町曳山の背面にある大彫は「関羽、書を読む図」(明治7年(1874) 番匠屋13代田村与八郎の作)と呼ばれ、書物を読んでいる関羽の姿が描かれています。

関羽は中国の後漢から三国時代(220年前後)に活躍した人物で、正史である『三国志』はもちろん、明の羅貫中(らかんちゅう)が著した『三国志演技(三国演技)』においても、張飛とともに劉備を助けて大活躍した有名な武将です。

ごく一般的に描かれる関羽の姿は、武器の青龍刀を持った姿が多いのに対して、上新町の曳山彫刻の関羽は書物を読んでおり、なかなか珍しい姿だと言えます。

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 関羽が手にしている書物を調べてみると、書名として『兵法語章 上』と記されていました。この『兵法語章』がどのような書物なのか知りたくて、八方手を尽くして調べてみましたが、該当する書名に行き当たらず、謎が深まるばかりでした。

 そこで上新町の方々にお願いして、本のページ部分を写真に撮らせていただきました。

 すると、いくつかの文字が判読でき、非常に驚かされました。判読できたのは38文字で、下記のとおりです。(横書きにしてあります。)

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右ページ 

夫兵形 象水水之
形避高 而趨下兵
之形避實撃虚水
因地 而制流
敵而制 勝故 兵無


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左ページ

常勢水無常
形能 因敵変化而
取勝 者謂之
五行無 四時

 これらの文字の中で、網掛けをした「避實撃虚」という4文字が判読できたことが幸いでした。これが読み取れたことによって本来の書名がすぐに分かり、後は芋づる式に、消えている文字はおろか、次のページに続く文字まで分かるようになりました。

 関羽が読んでいる書物は、兵法書で名高い『孫子 虚実篇』で、消えてしまっていた文字を補うと次のようになります。  の部分が補った文字です。

右ページ  

夫兵形象水水之
形避高而趨下兵
之形避實撃虚水
因地而制流兵因
敵而制勝故兵無


左ページ

常勢水無常
形能因敵変化而
取勝者謂之神故
五行無常勝四時

そして、次のページには、「無常位日有短長 月有死生」と書き続けられるはずだということまで分かりました。

 これを読みやすくすると以下のようになり、自然の節理を重んじた孫子(紀元前4~5世紀)の思想を読み取ることができます。

夫兵形象水 水之形 避高而趨下 兵之形 避實而撃虚
水因地而制流 兵因敵而制勝 故兵無常勢 水無常形
能因敵変化而取勝者 謂之神 故五行無常勝 四時無常位
日有短長 月有死生

(夫れ、兵の形は水に似たり。水の形は高きを避け、下に趨く。兵の形は実を避け、虚を撃つ。水は地に因りて流れを制し、兵は敵に因りて勝を制する。故に兵には常の勢い無し。水には常の形無し。能く敵の変化に因りて勝を取る者は、之を神と謂う。故に五行は常に勝つこと無し。四時に常の位無し。日に短長有り、月には死生有り)

 上新町曳山の大彫「関羽、書を読む図」を調べていく内に、関羽が読んでいる書物が『孫子』だと発見することができ、非常な喜びを感じています。



曳山彫刻;今町

「孝子・呉猛」(こうし・ごもう)→浮き彫りの蚊

文/桐谷正
写真/森人

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<↑今町の曳山の二階高欄をご覧ください>

 今町曳山の二階高欄(こうらん)の後方に彫ってある「呉猛」は、井波の名工・番匠屋(ばんしょうや)十二代の田村与八郎が明治六年に彫った作品である。
呉猛は二十四人の親孝行な人物「二十四孝(にじゅうしこう)」の中の一人で、次のような逸話が伝えられている。
「呉猛の家は貧しくて蚊帳(かや)を買うお金がなく、夜ごと蚊に悩まされる老父を見るに忍びなかった。
そこで、わずか八歳の呉猛は自ら裸になり、蚊を自分の方に寄せて、父
がゆっくりと眠れるように気を配った……」と。

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<↑蚊が何匹も背中を刺している。本当に痒そう。実にリアルなこだわり>

 今町曳山を飾る彫刻の呉猛も、話の内容と同じように老父の傍らで裸になり、うずくまっている。
そして、その背中に描かれている蚊を調べてみると、それは彩色(さいしき)の際に絵筆で描かれたものではなく、彫刻の段階から浮き彫り(うきぼり)の技法でもって浮き立つように彫ってあり、彫刻師の思い入れをつぶさに感じることができる。

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<↑それにしても父親はいい気なものだ>

 江戸時代後期には『絵本二十四孝』などの版本(はんぼん)が出版され、孝行説話が盛んに読まれたことを考えると、江戸から明治初期においては、呉猛がなしたような滅私奉公、自己犠牲を伴うような親孝行が大いにもてはやされたものと思われる。

 確かに、呉猛がなした行為は見上げたものかも知れない。しかし、現代に生きている私の心の一方では、「いくら親孝行をなすにしても、そこまで身を犠牲にしなくても……」という思いを禁じ得ないでいる。